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くちびるにはなうた

2006年4月〜求人誌「週間FREE」誌上で連載中

毒も花もある日々のうた

これまでしてきた仕事や、今の仕事やくらしについて書いています

2006年10月2日

くちびるにはなうたーvol.24 「鳴瀬喜博のベース講座−3」

22歳から25歳までの3年間、音楽教材を制作する会社に勤めていました。後半の1年半は、鳴瀬喜博さんというベース奏者の教材を作っていました。カシオペアというフュージョングループで演奏していたベーシストです。教本が6冊、CDが4枚、ビデオ1本という豪華セットの通信販売用で、数年前に作ったものの改訂版を作るということでした。この制作で一番楽しく、かつ大変だったところはバンド録音。ベース演奏の基本から鳴瀬さんが勧めるベースライン、フレーズ集を収録したあと、CDの最後の1枚はそれらを駆使した鳴瀬さんの曲のバンド演奏を収めることになっていました。50畳くらいある広いスタジオに4人の演奏者を集めて録る、いわゆる「一発録り」。集まればすぐに音楽になる、腕のいい有名な方たちでした。それでなぜかみんな笑いを忘れない。みんながみんなその場にいる人を笑わせようとするので、笑いの種を放っておけない私は仕事が進まないこともしばしばでした。それはさておき、いつもCDで聞いているような音楽を録音で作っていくという作業を初めて目の当たりにして、衝撃の日々は続くのでした。

♪「ビタミン」
ABCDE
ABCDE
何が何にききますか?

ABCDE
ABCDE
何が何で摂れますか?

それで ABCDE
どれがどのくらい
いつどこでいくら
? ? ? ?

2006年 10月13日 

くちびるにはなうたーvol.25  「鳴瀬喜博のベース講座−4」

22〜25歳まで勤めていた音楽教材を制作する会社で、鳴瀬善博さんというベーシストの教材を作りました。テキスト、CD、ビデオのセットで通信販売。本の編集、CDの録音やミックスを終えると、ビデオの撮影に入りました。おびただしい数のベースラインのパターンが、テキストやCDに収められていましたが、その中から指づかいの難しいものや、指の動かし方にコツがあるものを選んで、映像で見せるためでした。撮影のあいだ、カメラが止まるとまた周りのみんなを笑わせようとするタフな鳴瀬さんの姿を、買った人に見せたいと何度思ったことか。結局のところ、演奏の善し悪しは、テクニックによるところよりも人そのものなんだと、この1年半の制作期間で分かったのです。私の観察結果によると、鳴瀬さんは現場にいるあいだ、ずっと覚醒していて、頭がすごいスピードで回転していて、特に何かを問われた時に反応するスピードがただごとでなく速い。そしてユーモアに溢れ、どきっとするくらい確信をつく言葉をおもしろおかしく投げかけてくるのです。
そしてその存在感が場所を共有するあいだ、ずっと雰囲気をつくっている。いつでもいい演奏ができるって、こういうことなんじゃないかと思いました。鳴瀬さんという人がベースの音になるとああなる(どうなるかは機会があったら聞いてみて下さい。タフだよ)。That’s All. それだけのこと。

 

「お月見」

まるいもの食べよう
たとえば何がいい?

クロい影が見えるね
こころの中にもまた

まあるくて
あかるくて
はんぶんで
うらもある
日々ちがう

2006年 10月13日 

くちびるにはなうたーvol.26  「鳴瀬善博のベース講座−6 完成、退社。」

22〜25歳まで勤めていた音楽教材を制作する会社で、鳴瀬善博さんというベーシストの教材を作りました。テキスト、CD、ビデオのセットで通信販売。この大作の制作に1年半かかって、出来上がりが見えてきた頃、私は会社を辞める決心を固めていました。深夜の帰宅になることもしばしばあった鳴瀬さんの教材制作をしている間、音楽で自分自身を表現することにもっと向き合わなければ、と思ったのです。鳴瀬さんを見ていて、人が音楽そのものだということを感じました。そして人そのものが音楽になっていくのはその人が真剣に音楽と向き合い続けているからだと痛感したのです。音楽に関わっているということで満足感を得られる職場でしたが、自分の音楽をつくるためには忙しすぎるところでもありました。会社で働きながら音楽を続けるために、転職する必要性を感じました。長く一つの会社にいると、慣れと責任が生じて、仕事は増えていくと思ったのです。25歳の私は、自分の思いを曲にして時々都内のライブハウスで弾き語りする、という活動を初めて4年が経っていました。気持ちはピュアで真剣でしたが、していた音楽は中途半端でした。こんな勝手な社員を雇ってくれたことに感謝して、制作の仕事で通い詰めたスタジオに、いつか自分の演奏や音楽で行けるようになるんだと心に決めて、新しい旅に出たのです。

「公園」
みどり、池、ベンチ
バイオリンの練習
笑い声

それぞれの暮らしから
ひと休みする瞬間
笑い声

ベンチの隣に座るひと
すれ違う猫の表情
笑い声

2006年 10月24日 

くちびるにはなうたーvol.27  「休憩時間」

25歳の時、大学を卒業してすぐに就職した会社を辞めました。次の仕事を探すまで、失業保険手当をもらいながら3ヶ月間くらい休憩と未来妄想をしていました。今週から何週間か、その休憩時間のお話しをしようと思います。まずしたことは旅行。行き先のカンボジアは、今でこそ良き観光地になったかもしれませんが、当時はまだ内戦直後で、現地につてがなければ入国、滞在の難しい国でした。国の中にも危険地域がたくさんあり、地雷問題も世界中で取り上げられはじめた頃でした。従姉がその土地で、女性が自立するための支援をしていました。私は2週間くらいカンボジアの首都プノンペンにある彼女の住まいで世話になり、市内や遺跡などを案内してもらいました。一つの就職を経験して少し一人前になったつもりでしたが、カンボジアに到着した夜に食した海鮮鍋でイチコロ、その後1週間もどし下り(失礼)っぱなし。目に見えない菌の前では無力でした。法律も何もないという国で、人々はよく食べ、よく笑っているように見えました。平日も休日もなく道ばたにたくさんの人が座っていました。仕事をするとか生活を築くとかそういう価値観が根こそぎ変わるような光景。その中で、私の未来予想図に大きな勇気を与えてくれたのは他でもなく私の従姉が、舗装されていない、土埃舞う道路を大きな歩幅で歩いていく、後ろ姿なのでした。

♪「カンボジアの川」
川に浮かぶあばら屋で
暮らしをつくる人々よ
水をすくって水を流す
濁って何も見えないけれど

川を渡す長船に乗って
街から街へ行く人々よ
過ぎゆく土地の笑顔に
手を振ってこたえるけれど

眼差しの先に何を見てるの?

2006年 10月28日 

くちびるにはなうたーvol.28  「休憩時間 2」

25歳の時、大学を卒業してすぐに就職した会社を辞めました。次の仕事を探すまでのあいだ、旅行をして、そのあと引っ越しをしようと思い立ちました。しかも、海のそばに住もうと思いました。目指した場所は三浦海岸。神奈川県横須賀市の先にある半島です。暇をみつけては三浦の不動産をうろうろし、砂浜や海岸沿いのマックでぼーっとしていました。したいこと、できること、住みたいところ、毎日の過ごし方。25歳の私にはもてあますほどの可能性、あるいは妄想、あるいは。何ができてもできなくても、何をしてもどこに住んでもいいんだなー、と海を見ながら思っていた時間が、何ももっていなかったことが、幸せでした。家族や友達から遠いところにいて、仕事もなく恋人もいない糸の切れたタコは、それでもそれなりに疲れてもいました。1ヶ月くらい通って海沿いのマンションをみつけましたが、引っ越す直前で寂しくなってしまい、結局、東京湾のそばの部屋に従姉と一緒に住むことにしました。さて。こころの旅と休憩を満喫した私は、次の就職先を求めてハローワークに通いはじめたのでした。つづく。

♪「むだなもの」

愛するもの
ふうーん
たとえば
よけいなもの

かざりとか
ポーズとは
ちがうよ
本気で無意味

 

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